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    今宵「ディスコの歴史」をまとめてみました。その1

    • 2013.04.16 Tuesday
    • 23:34


    先だってfacebookに書きまくった「ディスコの歴史」という文章ですが、僕の想像を遥かに越えた数の皆様に読んで頂き、かつまとめてコピペ等もして回し読みして頂いているようです。


    僕は最後の参考書物の部分まできちんとコピーして頂ければ(元々借り物のような文章ですので)まったく問題ないどころか嬉しい限りなのですが、流石に明け方に書きなぐった文章で、あまりにもミスタイプ多過ぎですので、一応その辺書き直し(まだ間違いもあるかと思いますが)、下記にまとめて貼ってみました(こちらのブログのサイズの都合上2つに分けています)。



    是非こんな時にこそ、目を通して頂きたいと思っていますので自由に使って下さい。では。





    ///////////////////////////////////////////////////


    NYディスコとディスコ・ミュージックの歴史


    その1


    まず一体ディスコとは?


    そもそもディスコという語源はフランス語のディスコティークから来ています。皆さんご存知のとおりレコードを(今はCDやハード・ディスコだったりPCだったりもしますが)プレイして、その音楽でお客を踊られる場所の事を言います。でもそのディスコティークってのはどうやって生まれて来たかと言いますと・・・・


    時は1940年代、第二次世界大戦下のフランス。ナチス・ドイツの占領下にあったパリではそれまでのように人々がビッグバンドに合わせて集い踊るという行為を禁止されていました(どこかの国の深夜のクラブのようでもあります)。それでも、いやむしろそんな状況だからこそパリの人々はドイツ軍の目から逃れて、隠れてでも集い踊りたいと思い始めました。やがて人々は密かに示し合わせ、深夜に秘密裏に隠れた場所に集い合うようになりました。そこではもちろんバンド演奏などは求める事はできませんので、持ち寄ったレコードに合わせて人々は踊り、一時占領下の不安を忘れ時を過ごしたのでした。そしてそうしてレコード=ディスクに合わせて踊るという事を人々はディスコティークと呼ぶようになっていったのです。


    どうですか、享楽的に感じられるディスコという言葉には、実はそんな誕生のお話があるんです。そして、そう!ディスコは生まれ落ちた最初から、日常の抑制から逃げ出す場所、アンダーグラウンドのものだったんですね。




    では、そんなフランス生まれのディスコティークが、ディスコの街NYに登場したのは一体いつ頃のお話なのか?



    どこそこのナニガシがNY最初のディスコだというやつも、実は数々の諸説があるのですが、NYにおけるナイト・クラブの先駆けとなったヴェニュー、1960年の大晦日にオープンした“Le Club”だというのが定説となっています。その後、次々にダンス・フロアのあるナイト・クラブはオープンして行ったものの、いわゆる今に繋がるディスコである“Arthur”がオープンしたのは1965年5月の事でした。



    1965年というと・・・(実はディスコ・カルチャーやその歴史に大きな影響を与えるひとつにNYのゲイ・カルチャーがあるのですが)・・・ソドミー法と言う口内性交や肛門性交等という特定の性行為を性犯罪とする法律がNYで制定された年でもありました。分かりやすく書くとようは男性同士のSEXを法によって処罰する事のできる法律が制定させた年と同時にディスコが生まれたのです。この事は僕にはどうしても分けては考えられない事実になっていますが、また後で詳しく。



    “Arthur” にはもちろんDJブースも専属のDJもいましたが、ナイト・クラブの生バンドがそうだったように1枚のレコードをかけ終えると次のレコードをかけるまではしばし音が止まるのが当たり前の状態でした。そんなディスコにまったく新しい風を吹かせたのも“Arthur”で、お抱えDJ、テリー・ノエルがDJブースに2台のターンテーブルを持ち込み、最初の曲がフェイド・アウトするやいなやもう一台のターンテーブルで次の曲をかけ始め、客に休む間も与えないプレイをし始め、人々は熱狂し次第にそうしたプレイ・スタイルがディスコDJのトレンドとなっていきました。



    1967年には “Electric Circus” というやはり伝説的なヴェニューがNYでオープンしています。時はいつ終るのかも見えないヴェトナム戦争の真っただ中。ロックが生まれ、ヒッピーが生まれ、やがてサイケデリックがブームとなっていき、LSDを始めとするドラッグが蔓延していく時代でした。「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれた時代です。当然“Electric Circus”では大量のLSDが服用され人々は現実逃避する場としてディスコに足を運んだのでした。そしてそこではVelvet Undergroundや、Grateful Deadのようなジャム・バンド、またミニマルやアバンギャルド等前衛的なバンドも出演していたようです。“Electric Circus”のオープンには740名のキャパシティに3,000人が集まる程の大人気だったようです。



    「サマー・オブ・ラブ」の時代、1960年代後半のアシッドな時代を迎え、当然当局もそんな時代の若者達に対しての対応を始めます。


    1967年にはアメリカ全土でLSDの一般の使用を全面的に禁止する法が制定されます。っていうかそう!それまではLSDの使用は法的にはOKだったんです。



    翌年、1968年にはアフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者として活動してきたMartin Luther King, Jr.,キング牧師が暗殺されるという悲劇が起きました。徹底した「非暴力主義」を運動の基本として提唱して来た彼の暗殺により、アメリカ国内の多くの都市で怒りに包まれたアフリカ系アメリカ人による暴動が巻き起こりました。


    (スティーヴィー・ワンダーの有名な「Happy Birthday」という曲は「キング牧師の誕生日を祝日にしよう」という彼の運動に捧げた曲なんですよ。)



    そんな先の見えない大きなフラストレーションを抱えながら、NYのアフリカ系アメリカ人達やゲイの男性達はディスコに通い詰めていましたが、まだ時代はソドミー法と慣習により各々を分離する事が基本となっていました。そう、ディスコ内でも男性同士で踊る事は禁止されていましたし、アフリカ系アメリカ人が白人系アメリカ人のパーティに立ち入る事は慣習的に禁じられていました(公共のバスでさえ、座席が区別されていた時代です)。



    そんな中のキング牧師の暗殺は、NYのディスコにも激しく新しい闘争の火が芽生え始めて行きました。


    やがてアフリカ系アメリカ人達の伝統的音楽とゲイ男性達の価値観両方を兼ね備えたパーティを作り出そうとし始めるグループが動き出します。まず始まって行ったのはゲイ男性のアフリカ系アメリカ人達によるパーティ。そのパーティではそれまで隔たりのあったゲイ同士やアフリカ系アメリカ人と白人達とをディスコというキーワードによって結びつける事になっていきます。



    ディスコというまったく新しいコミュニティの場の出現は、それ以降のカルチャー自体をも大きく変えて行くことになって行くのです。



     
    アフリカ系アメリカ人達のゲイ男性によるパーティが各地で催されるようになって行った60年代後半のNY。それでも男性同士が一緒に踊る事を禁じられていた時代、彼らは警官達がやってこない場所を各地で作り、パーティを行いながら次第にコミュニティとしての集団的意識を高めていくようになっていったのです。
     

    時代はロックンロールの第二黄金期。
    反抗と自由の象徴でもあるロックンロールは多くのフラワー・チルドレンと反戦運動をも産んで行きます。

     
     
    1969年にはそうした自由を求める空気がアメリカ中を覆いNYのゲイエリアでも同性愛を肯定するコミュニティを作ろうという動きが見られるようにもなっていきます。
     

    しかし反戦運動以上にそうした動きに対し当局は締め付けを強めゲイバーの出口には警察の護送車、ゲイが集うと警官が追い出しにかかるという日常が繰り返されて行きました。
     
     
    69年の6月のとある日。ゲイ男性にも大きな人気があったジュディ・ガーランドの突然の死に誰もが感情を高ぶらせていた夜。
     
     
    ヴィレッジにあるダンス・クラブ “Stonewall” に警察が現れ、溢れかえっていた店内から客を連れ出し始めた時。まず数人のドラッグ・クイーン達が警官をちゃかし始めました。次第に回りの群衆もその輪に加わって行き・・・・そんな異様に緊張感が高まった中、ひとりのレズビアンが警官に無理矢理連れ出されるのを拒んだ瞬間に、その時は訪れました。
     


    彼らは手に手に石をとり、矢継ぎに警官に投げ始めたのです。やがてパトカーに空き瓶が飛び、大きなゴミ箱でパトカーのフロントガラスは破られ、さらにその物音を聞いた周辺の多くの群衆が集い、口々に警官達を罵倒し始め・・・・
     


    後にストーンウォールの反乱と呼ばれる、ゲイ開放運動のきっかけはそんな夜に、ダンス・クラブから産まれました。
     
     
    やがてゲイ・コミュニティから正式にゲイ開放の幕開きの宣言がなされたのです。
     
     
    それ以降NYのゲイ社会は爆発的に拡大していきます。GAAというゲイ活動家同盟も出来、彼らの手によってソーホーの古い消防署を改造した「ファイアハウス」というヴェニューで毎週末フリーラブとドラッグと、そして誇りに満ちたパーティを行って行きました
     
     
    そうしたパーティはやがてはNYの街中に広がり、小箱ながら“Stage 45”MoscowCharadeという週末にはゲイ男性達が集うディスコが増えて行き、次第にNYの週末は集団的意識の高いゲイ男性達主導でディスコが盛り上がって行くようにになります。
     
     
    アフリカ系アメリカ人でゲイ男性という、2重のマイノリティを背負った人々が、そうやってディスコを背景に新たな時代を切り開いて行ったのです。




    そんな激動の1960年代後半。ロックの第二黄金期の波も受け、サイケデリック・カルチャーも花開いて行った事は以前に書きましたが、そうしたカルチャーを支えていたヴェニュー“Electric CircusFillmore East等にも関わり、後にソーホーの自宅で会員制(基本は招待リストに載っている人が入場できるという形式での紹介制)のダンス・パーティを開き話題になって行く男がいました。



    その男の名はデビッド・マンキューソ(本人は自分をDJとは呼ばないそうですが)。その音響設備への妥協無きこだわり、そしてジャンルにもとらわれず、かつストーリー制のある選曲(曲を繋いだりもしません)、そしてなによりもあらゆる人種、性的マイノリティーを歓迎したそのパーティ“The Loft
    の盛り上がりもディスコとディスコDJの意味付け、そしてマイノリティーの開放に貢献していった事は言うまでもありません。



    そうした多方面から盛り上がりをみせたゲイ開放運動により、一気に増加したNYのゲイ・ディスコ
    SandpiperIce PalaceSanctuary等の人気ディスコでも、DJ達もそのスキルを一気に高め出し、また内容にも大きな変化が起きて来ました。そんなDJのひとり、フランシス・グラッソは2枚のレコードの回転数を調整する事でそれぞれのテンポを合わせあたかも同じ曲が流れているかの用に2枚のレコードを繋ぎ出し、DJをアートの域に高めたと評されるプレイをし始めます。また誰もしらない曲や知らないヴァージョンを探し、提供するという今日のDJの基本ともなるひな形が産まれて行ったのもこの頃でした。


    1969年、人類は月に降り立ち、若者はウッドストック・フェスティバル等ロックの祭典に酔いしれる年。都市におけるディスコの意味合いが確立され始めた年でもありました。





    そして時代は1970年代初頭。まず一体1970年というのはどんな時代だったかと言うと、ビートルズが解散、日本では大阪で万国博覧会が開かれ、アメリカではニクソン大統領がベトナム和平への5項目を提案・・・そんな年でした。


    僕の中の大きな音楽的な出来事がギャンブル&ハフがCBSコロンビア参加にフィラデルフィア・インターナショナル・レコード(P.I.R.)を設立した年という事。ここから、後のサルソウルやディスコ・ミュージックに繋がって行く、それまでのモータウン・レコードやハイ等のサザン・ソウルとは違った、世界を震撼されていく新しいダンス・ミュージックが生まれて行く事になるのです。


    70年代に入るとゲイ開放の気運にも後押しされたパワーで、NYには巨大なディスコもオープンしていきます。昨日上げた“Sanctuary
    もそのひとつで、人気の大箱ゲイ・ディスコとなりました。そこではDJたちのプレイにも増々新しいスキルが生まれて行き、今日にも繋がるミックス技に磨きをかけたDJ、マイケル・カペラはニッキー・シアーノ等にも大きな影響を与えたと言う事です。


    またドラッグ・クイーン達による「ドラッグ・ボール」と呼ばれたラスベガスのショーを彷彿とさせるど派手なパーティも人気を博すようになり、そうしたパーティ・グループのひとつ「ダッチェス」で15歳のラリー・レヴァンと14歳のフランキー・ナックルズも出会いました。


    後のNYガラージ・サウンドの創始者と、シカゴ・ハウスの生みの親もそんなNYのカルチャーのど真ん中で暮らし始めていたのです。




    当然そんな彼らにも影響を与えたのが前述したパーティ
    The Loftでしたが、The Loftを始めNYの小箱系クラブに特徴的な事柄のひとつに酒類の販売が無いと言う事がありました。NYを訪れた方はお酒を勝手に持ち込んで構わないレストランがある事に驚いた事があるかと思いますが、NYでは酒類取締委員会が厳しい規制を強いていて、免許の取得が難しく、結果酒類の取り扱い無しでお店を開く事も珍しくありません。



    しかし、それは当時の
    The Loftではドラッグの蔓延に直結する事ともなりました。人々はお酒の代わりにポッパーズ、エンジェルダスト、MDA、スピードそしてコークというあらゆるドラッグに手を染めて行く事にもなって行くのでした。



    巨大ディスコでの爆発的な巨大パーティ、そして真逆な
    The Loftのような会員制パーティという極端なパーティ・カルチャーが生まれました。NYには次々とThe Loftスタイルのクラブもオープンし、人々はその場にさえ居れば、人種も性的マイノリティーや階級や貧困からも開放され、全てが共通共同の仲間だと言う意識を持てる事に熱狂し、やがてドラッグとSexという快楽にも深く激しく落ちて行く事にもなっていったのです。



    それはあたかも激しく抑圧された1960年代の想いから逃げ出す為の熱狂のようでもありました。






    さて、そんな色んな意味で怒濤の70年代初頭。後にNYで黄金のディスコ時代を作る多くの重要人物も
    The Loftに出入りし、仲間を増やし、繋がりを持ち始めて行きます。


    前述したようにNYの出て来たミッドティーンだった(!)フランキー・ナックルズとラリー・レヴァンも
    The Loftの常連となって行き、きらびやかに着飾った黒人達やラティーノ、アジア系に白人達が隔たりも無く入り乱れ、心から自分を開放し集っている様に強く影響され、いつかこんなパーティがもっともっと大きな規模で行われるヴェニューを作りたいという野望を持つ男達も現れました。NYイチ大きくて新しく、見た事の無い、人種等の区別が無い前代未聞の、そんな大型ディスコを夢見たのはマイケル・ブロディやメル・シュレインという男達。後に“Paradise Garage”をオープンさせる男と「West End Records」を立ち上げる(当時は)カップルでした。



    しかし1972年夏にはそんな好調だった
    The Loftをデビッドはクローズする事を決めます。行く宛を失った多くのThe Loftファン達の受け皿となったのは、The Loftでディスコに必要不可欠な要素の全てを学び尽くしたDJ、ニッキー・シアーノが始めたヴェニュー“The Gallery”。その時の年齢はなんと17歳だったというから驚きます。まだ法的にはディスコに出入り出来ない年齢で既に彼はディスコの創業者件スターDJに上り詰めたのです。



    “The Gallery”で大事だったもうひとつの出来事。それはニッキーが“The Gallery”のDJにフランキー・ナックルズを誘い、フランキーが仲の良い友人ラリー・レヴァンも誘い、ラリーは室内装飾担当&プロモーターとして雇われた事です。ニッキー・シアーノ、フランキー・ナックルズ、ラリー・レヴァンがNYの同じヴェニューで互いに影響を与えながら働いていたという出来事は後のディスコ史にも大きく左右していく偶然だったと思います。




    そうして多くのディスコが誕生し人気を博して行くという事は、そこでのDJ達もそのプレイの内容がどんどん進化していく事でもありました。1972年には
    Galaxy 21Better Daysといった伝説のディスコも次々にオープン“The Gallery”ではウォルター・ギボンズのDJが、Better Daysでは看板DJ ティー・スコットがと言うように後に12"Ver.用のリミックスを制作するリミキサーとしても名をあげていく連中が、まずはDJとして名をあげはじめていく時代でした。



    ニッキー・シアーノは夢で見たという話を後に残していますが、その頃世界で初めてターンテーブルを3台使ったDJプレイを始めています。そうしたプレイを間近で見て来たラリー・レヴァンとフランキー・ナックルズは“Continental”と言うヴェニューでも共にDJをするようになっていき、徐々に各々のファンを一気に増やし始め、その名前を広め出すようになっていきます。


    まだふたりとも10代の話です・・・・・・





    ラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズ、ウォルター・ギボンズやティー・スコット達が次々に人気DJとして名を挙げて行く1972年のNY。



    ディスコ人気が高まり、必然的にそこでの音響設備の質も量も飛躍的に進歩していき、DJ達のスキルやセンスが上がって行き、DJ達自身が人気となっていくと、当初はディスコやそこでプレイされる音楽のことなど見向きもしなかったレコード会社の中にも、ディスコを通じてヒットが産まれる可能性を想像し出して行く人間が現れます。最初はDJ側からのアプロートでした。そんな可能性を逆手にとってレコード会社を回り、大箱ディスコでプロモーションしてやるから新譜をくれと言い出したのも実はニッキー・シアーノだったそうです。彼はDJとしてだけでなくそうした経営手腕のあったプロデューサーでした。



    1972年頃のアメリカの音楽状況はというと、エルヴィス・プレスリーが “Burning Love” のヒットで完全復活ののろしを上げ、ポール・サイモンがS&Gからソロになり“母と子の絆” がヒット、ドン・マクリーンの “American Pie”、ニルソンがカバーした “Without You”、ギルバート・オサリヴァンの “Alone Again”、ニーノ・ロータの “ゴッドファーザー愛のテーマ” が映画共々大ヒット。ロック界ではシカゴが “Saturday In The Park” を、イーグルスが “Take It Easy” を、UKのディープ・パープルが “Highway Star” を、レッド・ツェッペリンが “Black Dog” をヒット、メジャー界のヒットはそんな年でした。さらに新たな風としてイギリスからT・レックスの “Telegram Sam” “Children of the Revolution” がヒット、当時両性具有とも言われたデビッド・ボウイが “Star Man” をヒットさせ、お化粧バリバリのグラム・ロック旋風が吹き始めた、そんな頃でした。



    そうしたラインナップを見ても分かるように、実際にはごくわずかな時代に敏感なA&RだけがそうしたNYディスコの風を感じ始めていただけで、ディスコ・ミュージックから全米ヒットが産まれる等と言う事は音楽業界の多くの人間にとっては夢にも思わない事でした。



    もちろんDJ達がプレイする音楽自体もまだまだディスコ・ミュージックと呼ばれるようなスタイルを持ち合わせていず、ジェームズ・ブラウン “Sex Machine” やアイザック・ヘイズ 映画『黒いジャガー』のサウンド・トラック等、ある種60年代から繋がるソウル/ファンク・ミュージックを中心にプレイしていました。それでも1972年から1973年にかけてジワジワと、例えばオージェイスの “Back Stabbers / 裏切者のテーマ” やグラディス・ナイト&ザ・ピップスの “Midnight Train To Georgia / 夜汽車よ ジョージアへ” のようにニューソウルとも呼ばれた60年代とは質感が異なるダンス・ミュージックが生まれ始めてもいました。



    やがてオージェイスを始めとする、フィラデルフィアのふたりの名プロデューサー、ケニー・ギャンブルとレオン・ハフの手によって立ち上げられたフィラデルフィア・インターナショナル・レコード (以下P.I.R.) からリリースされた、フィリーソウルと呼ばれる新しいダンス・ミュージックが一気に幅広い人気を博して行きます。


    元々、ケニー&トニーというデュオで1959年からトム・ベルと一緒にアーティスト活動をしていたケニー・ギャンブル、NYでフィル・スペクターらにスタジオ・ワークを、ソングライター・コンビのエリー・グリニッチ&ジェフ・バリー等に作曲を学んだケニー・ギャンブルは、1966年に一緒にエクセル・レーベルを立ち上げイントゥルーダーズの “Cowboys To Girls” 等のヒットを生み、キャリアを築いて来ていました。そんなギャンブル&ハフの2人が1971年にメジャーのColumbia Recordsと新しいレーベル、P.I.R.の配給契約を結ぶ事からフィリーソウルの怒濤の歴史が始まりました。この時期に共に活動していたトム・ベルも作曲家兼アレンジャーとしてをP.I.R.に招き入れ、 そこから1年あまりでオージェイズ “Back Stabbers / 裏切者のテーマ”、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ “If You Don't Know Me By Now / 二人の絆” 、ビリー・ポール “Me and Mrs. Jones / ミー&ミセス・ジョーンズ” の大ヒット曲を次々と輩出、 後のディスコ・ミュージックに大きな影響を与えるP.I.R.時代を築く事になっていくのでした。




    そんな中、ディスコの現場ではラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズの友人のひとりでもあった、NYのWBLSのラジオDJ、フランキー・クロッカーが連夜プレイされディスコ・ヒットしていたフランスからの輸入盤で、当時のアメリカではまったく無名だったマヌ・ディバンゴの “Soul Makossa” という曲を気に入り、自身のラジオでもかけ続けた所、数週間のうちにヒットとなり、宣伝費もかけずツアーやライブをする事さえ無く、ディスコで流れ続けた事でヒットさせる事ができるという事実を作って行きました。そして、そんな気運が徐々に高まっていくにも連れ、ディスコ自体も取り巻く環境も大きく変化して行く時代を向かえる事になっていくのでした。




    カメルーン出身の、アメリカではまったく無名だったサックス奏者マヌ・ディバンゴの “Soul Makossa” のディスコ〜ラジオ・ヒットという事件により、レコード会社のA&R達がディスコを新たなプロモーションの場として考え始めた頃。1973年にはそんなレコード会社の人間に、さらに新たな発想の転換を余儀なくさせる、新しい現場からのアイディアがセプター・レコードのA&R、メル・シュレイン(後にWest End Recordsを起こす男です)によって行われました。ウルトラ・ハイ・フリークエンシーの “We Are On the Right Track” というダンス・ナンバーをリリースする際にB面に入れる曲が無く困っていた所、メルが渋る会社を説得しシングルとして極めて異例な、B面はA面のインストVer.を収録した作品をリリースしたのです。



    実はメルは何台ものターンテーブルを使い出し、曲を繋いだり2枚のレコードを使ってサイズを変更させたりしながらプレイしているDJ達がもしもプレイしたい曲のインストVer.があったらオリジナルとインストの2枚を使ってい、歌の途中でいきなりインストになったり、曲を引き延ばしたり、ここぞという場所でいきなり歌入りのサビを登場させたり等現場に合わせ、より自由自在に曲のサイズを変更しながらプレイできるのにと悩んでいた現場の事実を知っていたからこそ実現したアイディアでした。


    最後まで渋っていた上役達を尻目に、“We Are On the Right Track” のインストがカップリングという仕様にDJ達は大興奮し競ってプレイし(もちろん2枚3枚使いで)、結果的に曲もヒット。その年に終わりには各レコード会社が、慌ててダンス・ミュージックのシングルのB面にはインストVer.を収録する事になって行く程の事件になったのです。そしてその年を象徴するひとつに、後に「初のディスコ・ミュージック・レコード」と呼ばれたエディ・ケンドリックスの“Girl You Need A Change Of Mind” がリリースされています。




    ディスコからヒットが生まれる、そんな気運が高まって行った1974年。遂にそのムードは現実のものとなって行きました。1973年の後半あたりからニッキー・シアーノは自身のDJ哲学でもある「誰も知らない踊れる曲をプレイする」という事から、廃盤状態だったラブ・アンリミテッドの “Love’s Theme” という曲を発見しヘビー・プレイするようになりました。バリー・ホワイト作曲&プロデュースの大編成のストリング・セクションをウリとした17分の大作は、ひとつには長いのでDJがトイレに行って来られる(笑)という理由もあって人気になったとも言われますが、そんな17分の曲をいつしかラジオでヘビー・プレイもされていくようになり、1974年2月に遂には全米チャートの1位までもを獲得した時には、予想だにしていなかった全米中ののA&R達が腰を抜かしてしまいました



    レコード会社の人間が “Love’s Theme”の大ヒットに目を白黒させていたその一月後、同様にディスコでヘビー・プレイされ火がついた(前年の“Girl You Need A Change Of Mind”も人気だった)エディ・ケンドリックスの“Boogie Down”も全米2位に、4月にはP.I.R.からギャンブル&ハフ、プロデュースによるフィラデルフィアのスタジオ・ミュージシャン達を集め結成され、後にP.I.R.を始めとする多くのフィリーソウルの伴奏を受け持つ事にもなるMFSB (Mother, Father, Sister & Brotherの略)の “TSOP (The SOund Of Philadelphia)”が2週間に渡って1位を獲得しました。



    遂にディスコのパワーが全米を震撼させた瞬間でした。



    一度決壊したダムは収まる事を知らず、その夏にはサンタモニカ出身の女性1人を含むヴォーカル・トリオ、ヒューズ・コーポレーションの “Rock The Boat” が全米1位に、その翌週には取って代わるように、後にKC&サンシャイン・バンドを結成し自らも大ヒットを産んで行く、まだ駆け出しのハリー・ウェインK.C.とリチャード・フィンチ、プロデュースによるジョージ・マクレー “Rock Your Baby” が1位に輝いて行きます。



    これまでのどんな音楽とも違った、ファンキーでアップテンポでセクシー、聞くのではなく踊っているとたまらない多福感溢れるその歌詞/メッセージは、歌う人間ではなく、踊るみんなが主役という新しい音楽でもありました。ダンス・フロアで快楽に身を任せる為の音楽、ディスコ・ミュージックのひな形が出来つつありました。



    後に「ディスコの起源の曲」と呼ばれるこの2曲の大ヒットにより時代は一気にディスコの時代に向かって走って行くことになります。





    1974年に遂には全米チャート首位に上り詰めたディスコ・ミュージックでしたが、その頃の他のヒット・ソングというと、カーペンターズの“Jambalaya”“Please Mr.Postman”、エルトン・ジョン “Bennie and the Jets”、グランド・ファンク・レイルロードの“The Loco-Motion”、ポール・マッカートニーとウイングス“Band on the Run”、ジム・クローチ “Time In A Bottle”、映画もヒットしたバーバラ・ストライサンド“The Way We Were / 追憶のテーマ”等で、それらを押しのけてトップに立ったディスコ・ミュージックがどれほど他の曲と違っていたのかが良く分かるかと思います。



    そんな年にヒットしたのが、後にクリスティーナ・アギレラ、リル・キム、ピンク、マイア等によるカバーもヒットした、ラベルの “Lady Marmalade”。この曲は全米/全英でのシングルチャート1位を獲得します。ニューオリンズの巨匠、アラン・トゥーサンのアレンジ/プロデュースで、ミーターズ始め周辺のミュージシャンも参加のニューオリンズ・ファンク・チームがディスコ創世記に生んだ傑作として名を残します。




    その頃ディスコに持ち込むMixを作るためのレコードを求め、他のDJ達と同じように毎日レコード会社を回っていた男がいました。ハンサムな(実際にモデルもやっていました)ダンス・ミュージックに詳しいその男は、DJとは違って自宅でDJ Mixを仕上げたテープをディスコに持ち込み、現場ではフロアの反応を楽しんでいたという変わったタイプの男でした。彼は自宅でディスコ・ソングの構成自体も編集し踊りやすいよう変えてしまい、踊っていた客さえも驚く個性的なMixを作り評判となっていました。やがて彼は音楽誌『ビルボード』のビル・ワードロウがNYにディスコの取材に来た際に案内役となり、ビルにその詳しさと人柄を気に入られ、『ビルボード』初のディスコ・コラムの執筆もしていくこととなり、ディスコの案内人として有名になっていきます。その男の名はトム・モウルトン。後にディミトリ・フロム・パリに「エクステンディッド・リミックス(リミックスのロング・バージョン)というアートを創った張本人だ」とまで言わしめる、世界で最初に12インチというフォーマットを使いディスコ用により長く踊れる編集されたエクステンディッド・リミックスを生み出す男です。



    そして1974年の夏。以前から“The Loft
    で人種混合のパーティをより大きな規模でやってみたいと思っていた男、マイケル・ブロディが現在のトライベッカに新しいディスコ“Read Street”をオープンします。当初は地主とのゴタゴタもありスムーズにいかなかったようですが、やがてマイケルは“Soho Place”というディスコでDJをしていた新人DJと出会い即座に“Read Street”に誘います。“Soho Place”がその新人DJの人気で客が多過ぎた事も原因でクローズしたタイミングで、マイケルはそのDJに電話を入れ招き入れ、やがてDJは“Read Street”の看板DJとなっていきます。



    Continental”でスキルを磨き、今ではすっかりオリジナリティ溢れるDJとなっていたその人気の新人DJこそが、ラリー・レヴァンでした。





    ラヴ・アンリミテッド・オーケストラ、MFSB、ヒューズ・コーポレーション、ジョージ・マクレー等が初めてとなるディスコ・シングルの全米1位を獲得したディスコ元年と呼びたくなる1974年。1971年に始まったTV番組「ソウル・トレイン」のお陰でディスコは音楽だけでなく、1974年頃には出演するディスコ・アーティストのライブや、ソウルトレイン・ダンサーズと呼ばれたダンサー達のダンスや個性的なファッション、ヘアー・スタイルも人気となっていき、そうしたディスコ・ファッションもが流行の先端となっていきました。



    その年にはさらに色々な事が始まりました。まず前述したビルボード誌に初のディスコ・ヒット・チャートが出来ます。トム・モウルトンのよる同誌へのディスコ・コラムも始まりました。


    そしてさらに大きな事件のひとつが、ジョー、ケン、スタンリーのカイル3兄弟がNY発のレーベル、
    Salsoul Recordを設立した事です。もともと70年代初頭からメキシコ〜中南米の音楽をアメリカで発売させようとレコード産業に身を投じた兄弟達でしたが、声をかけ続けたメジャー・レコードからは相手にされず、それならばと自身達でレーベルを始める事を思い立ちます。きっかけともなったジョー・バターンのアルバム、その名も「サルソウル」のサルサ+ソウルというサウンド・コンセプトに着目し、そうしたサウンドをクリエイトし、かつ自分達の手でリリースするレーベル、Salsoul Recordsを立ち上げたのです。兄弟のひとり、ケネスは当時先んじて新しいソウル・ミュージック、ディスコをクリエイトし人気をはくしていたフィアデルフィアに出向き、好きだったアーティスト全ての演奏が、同じ面子で行われている事を知ります。その演奏家達、フィアデルフィアではMFSBとも呼ばれたシグマ・サウンド・スタジオを活躍の拠点とするP.I.R.のハウス・バンドとも呼べるスタジオ・ミュージシャン達に目を付け、彼らと直接契約を結びアーティストとして発信していけば、成功するのではないかと考え彼らにサルソウル・オーケストラという名前で活動するアイディアを話したのです。



    ちょうどその頃、P.I.R.のプロデューサーであるギャンブル&ハフと折り合いが悪くなっているメンバーも多く(諸説ありますが、イスラム教徒でなにより曲のメッセージを重用視するケニー・ギャンブルに対し音を重視したいミュージシャン達が反旗を翻したとも言われています)、結果ロニー・ベイカー (Bass)、ノーマン・ハリス (Gtr)、アール・ヤング (Dr)、ロン・カーシー (Kbd) 、ラリー・ワシントン (Per) を始めとするMFSBの中核メンバー達は、ヴィンセント・モンタナ・Jr. (Vib) が指揮を執るサルソウル・オーケストラに移籍してしまったのです。



    そうしたメンバーに依るサルソウル・オーケストラは最初の曲 “Salsoul Hustle”を録音しました。さらに見いだした女性ヴォーカリスト、キャロル・ウイリアムス、そしてシカゴのジャズ・ギタリスト、フロイド・スミスという3組のアーティストの制作を行いました。



    1975年にサルソウル・オーケストラの “Salsoul Hustle” をリリースするや否やラジオDJ達はこぞってかけまくり、結果7インチは10万枚のヒットに、彼らは慌ててアルバムの制作に着手します。大手メジャー・レコードからまったく相手にされなかったレーベルSalsoul Recordsはこうして破竹のスタートを切ったのです。







    本当に1974年から1975年にかけてのディスコ界は書き上げる事件が多く物語が進みません。それも皆大事な事ばかり。1974年から1975年にかけて発明されたひとつの事件に付いてさらに書いてみます。



    先日紹介したモデルの様な美男子トム・モウルトン(実際にモデルもやっていた)。現場でDJこそやらなかったものの「ビルボード」誌に人気のディスコ・コラムを持つ彼は、1974年半ばには既にディスコ界に影響を与える人間として認知されていましたが、その頃彼は異なるふたつの曲同士のテンポを合わせ、どこから次の曲が始まったか分からないように聞かせるテクニック(当時はスリップ・キューイングと呼ばれました)の発明を始め、実際の音でも多くのDJ達に影響を与える発明をし続けました。



    自宅の録音機材を使って曲そのものの構成をダンス用に変えていた事は先日書きましたが、彼はもっと大元の、マルチ・テープとよばれる各チャンネルにドラム、ベース、ギターや歌がセパレートされ録音されているテープ素材をまったく新たにミックスし直す事ができれば、例えばここは歌は無し、ここはベースは無し等とオリジナルとはまったく異なる、純粋にダンス用のヴァージョンが作れるのではないかと考え出しました。



    最初は、後にWest End Recordsを興すメル・シュレインが、フレディ・フランクというプロデューサーが手掛けたドン・ダウニングの “Dreamworld” という曲のマルチをトムに渡し、ダンス用に作り替えてみてくれとオファーした事からでした。曲全体の質感自体もすっかりキレの良いディスコ・ナンバーらしく生まれ変わったのはもちろんの事、トムは3分だったオリジナルを編集し倍近くにも引き伸ばし、かつ素晴らしかった事が途中で転調してしまうその曲の転調部分では、音程のある楽器や歌を全てミュートし(音は出ないようにして)、ドラムとパーカッションだけにしてしまい、そこからもう一度オリジナルのキーに戻したと言う事でした。そう、全ての楽器が止まりリズムだけが鳴り続くと言う、今で言うブレイク・パート、ディスコ・ブレイクが産まれたのです。



    作業の上では転調している部分を避ける為に無理矢理行われた作業でしたが、そうしたパート=ディスコ・ブレイクは増々フロアの客のテンションを高め熱狂を生み、かつDJ達はディスコ・ブレイクの部分は音程のある楽器が無いことから、それぞれのテンポを合わせる事で容易に異なる2曲を繋ぐ事が出来ると言う大きな発明でもあったのです。




    次々にそうしたディスコ・ブレイクの入るリミックスVer.が作られて行きました。そしてもちろんトムは人気のリミキサーとなっていきます。「俺の音楽を台無しにしてしまった。」と怒りだすプロデューサーやアーティスト達も少なくありませんでしたが、そうしたヴァージョンがディスコで大人気となり、やがてはヒットしていく事実を知ると何も言えなくなっていくのでした。


    1974年の暮れにトムはさらに、グロリア・ゲイナーのデビュー・アルバムを手掛けていたプロデューサー達と出会います。3曲のヒット曲のリミックスの相談をされたトムは「その3曲をすべて繋いでしまったらどうでしょうか?」と提案します。「そしたら曲は一体どこで区切ればいいのか?」と聞くプロデューサー達にトムはこう答え作業に入ったと言います。「一体なぜ曲を区切る必要があるのですか?」。



    トムが3曲をスリップ・キューイングとディスコ・ブレイクの手法を使ってメドレー形式にした18分間のディスコ・メドレーはフロアに大歓迎され、翌年1975年3月にリリースされたグロリア・ゲイナーのデビュー・アルバムも大ヒット。数ヶ月後にグロリアは全米ディスコ連盟によって認定された「クイーン・オブ・ディスコ」に選ばれ、その座を2年間守りました。もちろん、同時にトムがリミキサーとして更なる名声を手に入れ、どんな曲でも蘇らせる事の出来る「ザ・ドクター」と呼ばれるようになっていきました。






    (番外編/リミックスという文化とその創世記の歴史について)


    世界で最初に作られたリミックスというのは1960年代の事、ジャマイカのエンジニア、キング・ダビーによって発明されたダブというのが世界的な見解です。でもリミックスという名称が広く世界的に広まったのは間違いなくここまで話して来た1970年代中期のNYを中心としたディスコという踊り場自体のヒットによってです。ソウルやファンクのヒット曲でフロアを湧かせていたDJ達の思いはひとつ「もっとみんなが踊り続けていられるようにこの曲のイントロ長くしたい!ここの間奏をもっと続けたい!!このサビを繰り返したい!!! 」でした。


    なにせ当時の曲はラジオで流れやすい事も意識して2,3分のものも多く、DJ達はそうしたヒット曲が終るとあっという間にフロアから引いて行ってしまう客を引き止めるため、同じレコードを2枚用意し、2枚目を16小節や32小節遅らせて再生し、繰り返したいポイントで1枚目から2枚目に切り替える事により結果的に構成をダンス用=フロア仕様にとリアルタイムに変更していたりしていました。


    改めて書いておきますが、そんな需要からダンス・ミュージック界ではA面はメイン、B面はインストを収録したシングルの発売が多くなっていきましたが、そんな事なら最初からフロア仕様に編集し直したバージョンを売りだしたら受ける事間違いない!とふんだレーベル側が作り出したのがリミックスなんです。


    今日でも変わらないリミックスの主な目的である、ダンスの為のフロア仕様への変更、その名もエクステンデッド・バージョン=ロング・バージョン、12インチ・バージョン(7インチ・シングルに対して収録時間の長いリミックスはLPサイズ=12インチ仕様で売られた事からこう呼ばれるようにもなりました)、リエディット、ディスコ・バージョン、ジャンボ・シングルなんて呼ばれていくリミックス・バージョンの誕生です。


    ディスコという踊り場に向けた現場仕様の業務Ver.、それこそがリミックスの基本なんです。そうしたリミックスがプロモーション用レコード(販売はしない宣伝用の白ラベルのもの)として1975年あたりから出始める中、最初に一般に売り出されたリミックス・12インチ・シングルがダブル・エキシボージャーの“Ten Percent
    (1976年)。トム・モウルトンの影響を受け手掛けたのはウォルター・ギボンズ。手法はスタジオでひたすらオリジナルのマルチ・トラックのテープとそれをミックスしたマスター・テープとの格闘でした。


    当時ヒットしていたフィラデルフィア生まれのSalsoul Recordsの録音を一手に手掛けていたスタジオ、シグマ・サウンド・スタジオにはジョー・ターシャという天才的なエンジニアがいましたので、彼によりミックスされたアナログのマスター・テープを編集する事によってオリジナルのフロア受けするパートを長く引き延ばした(何度も同じ部分を繰り返したりしながら)構成にし、フロア向けのエクステンデッド・バージョンを作ったのでした。



    今ではDAWで何も考えずコピー/ペーストしている作業をマルチ・トラック・レコーダー(もちろんこちらもアナログね)の素材を何度もミックスし、録音したマスターの2トラック・テープ自体を、例えばイントロを4倍にしたかったら4回繰り返しマスター・テープに録音し、アタック部分を頼りに正確に小節終りと次の小節頭を探してテープ自体をカッターで切断、互いをテープでマスター・テープの裏側部分を接着/固定するという、現代を生きる皆様には到底伝えきれないアナログ作業を何度も何度も繰り返し仕上げていたというのが当時の手法でした。



    でもそこで大事な事が「例えばイントロが4回繰り返されるのなら、1回目はドラムとコンガだけで良いじゃない。それで2回目からピアノとベースが出て来て・・・」なんていうダブ的解釈のリミックス・アレンジ脳自体も少しずつ生まれて来た事ですね。個人的にはここで生まれたこの発想こそが今日に繋がるリミックスの発想の原点だと思います。



    またサウンド的にもよりダンス色の強くなるよう(=踊りたくなるよう)、リズムやベースの音を強調したイコライジングを施したミックスをするようにもなり(これもトム・モウルトンが始めました)、フロアにも大好評でヒットした“Ten Percent
    の反響を受けサルソウルはもちろん、他レーベルも次々にリミックス・バーションをリリースするようになりました。もちろん当時は一般発売はされたものの12インチの存在はまだまだ基本的にはDJや一部のラジオ・プレイ用、極めて業務用のものでした。


    70年代の後半にはSEQENTIAL CIRCITS Prophet-5等シンセザイザーの台頭により、こうしたリミックス作業にも電子楽器を使ってさらにアグレシッブな仕込みをするようにもなっていきます。そうしたサウンドはやがて80年代のブラコンや後のハウス・ミュージックへと繋がって行く事ともなっていきます。



    シンセ等機材の進化はまずダンス・ミュージックにいち早く取り入れられ、同時期西ドイツで盛り上がったミュンヘン・サウンドと呼ばれる独自のディスコ・サウンドでは、リズムマシンやシンセサイザーのアレペジエーター等のシーケンス・パターンを多用した無機質で刺激的なサウンドが特徴で世界的にヒットしました。



    ご存知ジョルジオ・モロダーがプロデュースした一連のミュンヘン・サウンドはリミックス・バージョンも大量に作られ1大ブームを巻き起こします。その代表格、ドナ・サマーのリミック・バージョンは遂には17分にも達し、そうしたサウンドは後のハイエナジーやユーロビート、そしてシカゴ・ハウスの誕生へと進んで行く事になります。





    ここまで話して来たようにアメリカでディスコ・ヒットが一気に産まれて行くのは1794年。そこで、やっぱり気になるのはその前のディスコって一体どんな曲がプレイされていたのかって事ですね。もちろん僕もその場にはいませんので、様々な文献やネット等の資料から正しそうなものをいくつか上げてみます。


    まずはこちら、
    Sanctuaryで初めて2枚のレコードをMixしてプレイしたと言われている伝説のDJ、フランシス・グラッソの1970年のプレイ・リストから。


    フランシス・グラッソ @ Sanctuary (1970年)
    Abaco Dream – Life And Death In G & A
    James Brown – Cold Sweat from Live At The Apollo - Volume II
    James Brown – Get Up I Feel Like Being Like A Sex Machin
    Chicago – I'm a Man
    Jimi Hendrix – Band Of Gypsys
    King Crimson – In The Court Of The Crimson King
    Led Zeppelin – Whole Lotta Love
    Little Sister – You're the One
    Jackson 5 – ABC
    Rare Earth – Get Ready
    Sam & Dave – Hold On, I'm Comin'
    Four Tops – Still Water



    すみません、順不同ですがいかがでしょうか? なるほど!って納得のレア・アースのゲット・レディからやはり60年代のソウルを引きずる感じでジャクソン5やサムア&デイブ、そしてニューロックなシカゴやジミヘン、そしてしっかり旬なクリムゾンやツェッペリンもプレイされていました。一体 “Whole Lotta Love” の間奏部分ではフロアはどうなっていたのでしょうか? そしたらなんと、“Whole Lotta Love”の間奏ではシカゴの “ I'm a Man” がミックスされ!ギターソロ前のブレイクからまた“Whole Lotta Love”に戻していたようです。1970年に既にそんなミックスがなされていたんです!流石フランシス・グラッソ。僕も今度やってみよぅかな。



    もう少し時間を進めて今度は、1970年から1073年まで続いたNYで多くのDJやオーガナイザー、果てはクラブを始めようと志す人々にまで、大きな影響を与えた、初期
    The Loftでデビッド・マンキューソがプレイしていた曲を。


    デビッド・マンキューソ @ The Loft (1970年〜1973年)
    Babe Ruth – The Mexican
    Barrabas – Wild Safari
    Beginning of the End – Funky Nassaw
    Booker T. & The M.G.'s – Melting Pot
    Cymande – Bra
    Manu Dibango – Soul Makossa
    Olatunji! – Drums Of Passion
    Aretha Franklin – Ain't No Way
    Al Green – Love And Happiness
    The Intruders – I'll Always Love My Mama
    The JB's - Gimme Some More
    Eddie Kendricks – Girl You Need A Change Of Mind
    Gladys Knight And The Pips – It's Time to Go Now
    Van Morrison – Astral Weeks
    War – The World Is A Ghetto



    こちらもあまりの数なので無作為&順不同です。ご存知、アレサ・フランクリン、アル・グリーンからサイマンデやマヌ・ディバンゴ、そしてヴァン・モリソンなんかもある辺りがデビッドらしいです。



    さらに月日を進め、初期“The Loft
    の後The Galleryでフランキー・ナックルズやラリー・レヴァンを誘い、DJを始め人気を集めて行く3台のターン・テーブルを使ったDJ、ニッキー・シアーノ のプレイ・リストです。



    ニッキー・シアーノ @ The Gallery (1972年〜1973年)
    Genie Brown – Can't Stop Talking
    Lyn Collins – Think (About It)
    Creative Source – Who Is He And What Is He To You?
    The Doobie Brothers – Long Train Runnin'
    Brenda Holloway – Just Look What You've Done
    The Isley Brothers – Get Into Something
    Eddie Kendricks – Keep On Truckin'
    Love Unlimited Orchestra – Love's Theme
    MFSB – Love Is The Message
    MFSB feat.The Three Degrees – TSOP (The Sound Of Philadelphia)
    The O'Jays – Love Train
    The Pointer Sisters - Yes We Can Can
    Betty Wright – If You Love Me Like You Say You Love Me



    ここまで来ると大分、今日ダンス・クラシックスと呼ばれているセットになって来ましたね。しかしドゥービー・ブラザーズのこの曲は本当に根強い(笑)



    いかがですか?こうした曲達が1974年以前のNYのディスコで実際にプレイされていたようです。そしてなによりも40年経った今でもプレイされる曲が沢山ある事に驚きませんか。





    続く。。。。 




     

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    • 2018.05.24 Thursday
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