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    NYディスコとディスコ・ミュージックの歴史:その2

    • 2013.04.17 Wednesday
    • 01:20



    その2


    さて歴史にもどって三たび1974年の話から。

    1974年の最後にもうひとつダンス・ミュージック界にとって大事な発明が生まれました。それはひとつの偶然からでした。


    トム・モウルトンがとあるアーティストのリミックスを作っていたスタジオでのお話。ちょうど週末だったのでトムは出来上がったミックスを早速レフ・ディスク (一度限りの録音が可能なアセテート盤に録音されたプロモーション用のディスク)に録音し、何人かのDJに配ろうと考えていました。ところがタイミング悪 くスタジオにはいつものレフ・ディスク用のアセテート盤の在庫が無くなってしまっていたのです。幸い12インチ(いわゆるLPのサイズね)のアセテートは 残っていたので、少々高価なレフ・ディスクにはなってしまうと思いながらも、思いつきでせっかくなのでその12インチ幅に曲がちょうど収まるように溝を広 げて録音してみてくれとエンジニアに告げました。普段以上に大きく太い溝を掘り録音したその結果、なんとトムもエンジニアもびっくりするほど、聞いた事の 無いクリーンで圧力もある素晴らしい音になっていたのです。



    その偶然の発明はあっという間に現実の製品として考えられて いきました。それまでシングルは7インチ(ドーナツ盤ってやつです)のものしかなく収録時間には確実な制限がありましたので、12インチを使えるという事 はリミキサー達のクリエイティビリティをより一層高める事になっていく事になりました。そう、10分でも15分でも尺を気にする事無く、しかもよりフロア向きのエッジの効いた音でリミックスが作れるのです。


    世界で最初の12インチ・シングルは、セプターからリリースされたジェシー・グリーンの “Nice & Slow” とスウィート・ミュージックの “I Get Lifted” のカップリング盤と言われています。最初はもちろんDJやラジオ用のプロモーション用として12インチ・シングルが作られました。そんなものを一般の人々 が欲しがるはずは無いとレコード会社の人間は誰もが考えたのです。それでもやがてディスコ熱が各地に広く深く広がって行くと、多くの人々は夕べディスコで 流れていたあのサイズの曲を家でも聞きたいと思うようになっていたのです。



    そして遂に、世界で初めての12インチ・シングルが市販される日がやってきました。



    世界で最初に一般に向け市販された12インチ・シングルは1976年、先日紹介したサルソウル・レコードから発売されたダブル・イクスポージャーの “Ten Percent” だといわれています(同年にヒットしたタヴァレスの “Heaven Must Be Missing An Angel” が早かった説もアリ。ごめんなさい、それぞれの正しいリリース日時が見つかりません。誰か知ってたら教えて!)。元々オリジナルは3分の曲だったものを10分のロング・ヴァージョンにまで引き延ばした、そのリミックスを手掛けたのはDJのウォルター・ギボンズ。“Galaxy 21
    でレジデントDJを務めていた男でした。


    いよいよ時は1975年。


    1975 年のアメリカと言えば、なんといってもベトナム戦争が終結した年。そしてアメリカの宇宙船アポロ18号とソ連の宇宙船ソユーズ19号が地球を周回する軌道 上でドッキングに成功した年、実はマイクロソフト社もこの年に設立されています。日本では沖縄海洋博覧会や、3億円事件が時効になり、キャロルが解散 し・・・。


    NYのディスコ的にはハロルド・メルビン&ブルーノーツの “Bad Luck” が全米ディスコ・チャートの1位に11週連続で輝き、シルバー・コンベンション “Fly,Robin,Fly” やいよいよドナ・サマーの “Love To Love You Baby” が君臨した年でした。


    そ の頃NYのDJ達の間では一部の人気DJは各レコード会社から沢山のプロモーション盤がもらえ、そうでないDJ達はまったくもらえない程格差が広がってし まった現状に意義を唱え、無料かつ公平にレコード会社はDJ達にプロモーション盤を配布せよと言うストライキが起きました。



    デビッド・
    マンキューソは DJ達が集まったミーティングで「レコード・プール」というアイディアを出します。まずNYのDJ達が団結しひとつの団体を作り、メンバー達を正規のDJ として認定、レコード会社にはそのプロのDJ達が集まった団体として交渉していくというアイディアでした。そして初代会長として選出されたデビッド・マンキューソの元、150人のDJ会員達は25社ものレコード会社の人間を集め「レコード・プール」発足の発表と、さらにはその運営に協力する約束をあっという間に取り付けたのでした。


    DJ 達が自らの発案で立ち上げた機関で、レコード会社からその資金までも取り立て、自分達の必要な道具であるレコードを得るシステムを作り上げたのです(もちろんレコード会社のプロモーションにとってもより活用しやすいシステムでしたが)。ディスコ・ミュージックの台頭と共に、DJ達もがあっというまに音楽産 業のイニシアティブをとっていった事実が見えて来ます。



    1975年の夏に出たヴィレッジ・ボイス誌には、「今やディスコ界を牽引しているのは、レコード会社が作ったスター達でなくその場でプレイしているDJ達に他ならない。」という記事までが載りました。



    その後、あっという間にNYのDJ達183名が「レコード・プール」の会員となり、ディスコDJ達がレコードのセールス自体に大きな影響を与える立場になっ て行っている事に異論を挟むレコード会社は無くなっていました。実はやがて(それぞれがプライドも高い個人事業のDJ達ですので)ご想像通りの事情もあっ て、あまりにも大きくなり過ぎた「レコード・プール」は上手く機能しなくなっていくのでしたが、それでもこうした団結力で直に行動に出た事実は印象的な出 来事でした。



    そして丁度その頃からディスコは明らかに更なる新たな方向へ向かっていました。





    ドナ・サマーの “Love To Love You Baby” もその代表的な例でもありました。時を同じくし、“Bad Luck” やオージェイズ “I Love Music” の ヒットに酔っていたP.I.R.でも事件が起きていました。ディスコの大ヒットを矢継ぎに産む、フィラデルフィアの力を借りヒットを生み出そうと全米から 沢山のアーティスト達がやってきました。当然そうした「フィリー詣で」と呼ばれた他レーベルの仕事はP.I.R.で働いていたプロデューサーやミュージ シャン達の時間をP.I.R.の制作以外に多く割く事になりましたし、同時に多くの外部からの刺激やさらには誘惑も受ける事となります。


    そうした中、前述したNYでカイル3兄弟によって設立されたSalsoul RecordsにP.I.R.は多くのミュージシャン達を奪われて行ったのです。


    人々は新しい波、ディスコの乗り出そうとを一斉に動き始めていたのです。






    お話を少しNYのディスコ自体に戻します。


    デビッド・
    マンキューソが初期の“The Loftを閉めた後のNYのお話。ニッキー・シアーノが始めたThe Galleryや同じくThe Loftの影響を受けた、まだ新人DJだったラリー・レヴァンもプレイしていたSoho Place等がアンダーグラウンドでは人気のベニューでした。


    1973年の夏前には西45丁目に
    Hollywoodという大型ディスコがオープン。巨大なサウンド・システムを導入し、ゲイだけでなくストレートも集う週末のパーティはディスコとその音楽をメジャー・ヒットさせていく原動力になりました。同年タイムズ・スクエアと6番街のど真ん中にオープンしたLe Jardinはゲイ層を中心としながらも、ダイアナ・ロスを始めとする業界の著名人達や高所得でファッショナブル、トレンド・リーダー的客層にターゲットを絞り、セレブレティ・ディスコの草分けとなりました。


    そして1974年にはマイケル・ブロディが
    Read Streetをオープン、ラリー・レヴァンがDJを努めます。その年の暮れにはIce Palace”を閉めたフェスコがFlamingoという2,500人収容の大型ディスコをオープン。話題となると共にそこでも週末でも白人客が中心だったという新しい流れも起きていました。


    アフリカ系アメリカ人のゲイ達が中心となって築いて来たディスコの文化が少しずつ、確実に広がりを見せていったのです。そしてディスコ・ミュージック自体にも新しい波が押し寄せます。それまで、ディスコ・ミュージックにはスターは要らず、制作者=プロデューサー・ミュージックという側面が大きいものでした。さらに言うと、そうした音楽をヒットさせていくのは現場のDJ達、そしてなによりもディスコ・ミュージックにおけるスターはフロアで踊り続けるダンサー=お客達でし た。




    新たな波は新たなスターを運んで来ました。しかもそれは海外から。グロリア・ゲイナーが1975年に全米ディスコ連盟によって認定された初代「クイーン・オブ・ディスコ」に選ばれた事は書きましたが、今度はそれを遥かに越えるスター誕生のお話。


    まず、アメリカ国内のお話。MGMやブッダ・レコードでキャリアを積んだプロモーター、ニール・ボガートはロサンゼルスに新しく自分のレーベルを立ち上げていました。その名はカサブランカ・レコード。最初のアーティストはキッスというロック・バンドでした。



    その事からも分かるように、レーベルを始めた頃にはまったくディスコには興味が無かったボガードの考えが、海外から送られて来たひとつの曲で変わります。


    その曲を手掛けたのは、イタリア育ちで後に建築を学びにミュンヘンに出向き、そこで音楽の道に切り替えバンドでベースを弾きながらも夜な夜なディスコを渡り歩き、出会ったピート・ペトッテとコンビを組んでドイツ国内でヒットを産みだしてきたプロデューサー、ジョルジ・モロダー。歌っていたのは、マサチュー セッツ出身ながらミュージカル「ヘアー」のヨーロッパ公演でデビューし、キャリアもドイツでスタート。その後オーストリアの俳優、ヘルムート・サマーと結 婚しミュンヘンでバッキング・ヴォーカルの仕事をしていたドナ・サマーという女性でした。


    モロダーは当初、60年代にヒットしたジェーン・バーキン&セルジュ・ゲンズブールの "JeT'aime Moi Non Plus" をヒントに思いついたと言う70'sセクシー・ディスコのアイディアをドナに持ちかけ興味を持ったドナと、ジェーンばりの喘ぎをたっぷり入れ作った曲が “Love To Love You, Baby”でした。さらに異常なほどバスドラム=キックを大きくミキシングし仕上げたその曲を聞き、ボガートは速攻アメリカでのライセンスを持ちかけたのです。


    ところが実は当初発売されたシングル “Love To Love You, Baby” はまったく期待はずれのセールスでした。ところがディスコからのリアル・タイムのフィードバックがボガードに頭にひとつのアイディアを光らせます。ボガードは電話でモロダーにこう指示したそうです。「 “Love To Love You, Baby” を20分に引き延ばしてすぐ送れ!」。。。。。


    4分しかなかったそのセクシーなディスコ・ソングは17分間続くオルガニズム・シンフォニーと変身し、果てしなく続くセックスのようにダンス・フロアを熱狂の渦に落とし込むアンセムとなったのです。


    1975年の9月には “Love To Love You, Baby” は全米のディスコ中でプレイされまくり、ラジオで流れる事も無く、瞬く間に10万枚を売り上げるヒットになっていました。“Love To Love You, Baby” はダンス・ミュージックをスタジオ主体の音楽にも変えていきましたが、不世出の世界的大スター、ドナ・サマーをも生み出したのです。






    1973年にタイムズ・スクエアと6番街のど真ん中にオープンした
    Le Jardin”は、 1975年にはNYのディスコの中心的な存在になっていました。先ほど書いたように多くのゲイ達を顧客としながらも、アンディー・ウォーホール、デビッ ド・ボウイ、エルトン・ジョンからピエール・カルダン、トルーマン・カポーティ等の著名人が来ていた事でその評判を高めて行き、次第に有名人見たさに、ま た憧れの場として、アイランドやニュージャージー、ウエストチェスターといった遠隔地から客が押し寄せるようにもなっていきました。そんな状況を嫌い、次 第に常連客はLe Jardin”から離れて行くようにもなりました。いつの世でも経済的側面とポジショニングを守る事のバランス、難しい話です。



    そういてマンハッタンを中心とした国際的なディスコの大流行は1975年には飛躍的な広がりをみせ、1975年にNY市内でダンスホールの営業許可書を新たに受けた店舗は45軒にも登りました。



    そんなディスコに新しい音楽がさらに風を吹かせます。ヴァン・マッコイのシングル “Hustle” の ヒットはフロアの人々にコミュニケーション・ダンスやそうしたパートナー・ダンスを流行らせて行きました。やがてパートナー・ダンスの技を競い合うダン ス・コンテストまでが産まれ、大きな人気となって行きます。TV番組「ソウル・トレイン」でのダンス・タイムもそんな流行に大きな影響を与えて行きまし た。



    ダンス・コンテストはどんどん大きな規模になっていき、遂にはマディソン・スクエアー・ガーデンで「世界最大のディ スコ・ダンス・パーティ」が開催されるまでになります。アフリカン・アメリカンやゲイというマイノリティの人々が日々の現実の憂さを晴らす為の自由の場と して作って来たディスコは、今や大規模のロック・フェスティバルのように、莫大な利益を生み出すまでメジャーなものへと変貌していったのです。





    1976 年に入るとNYではもぅ何件ディスコが存在するのか分からないような、そしてさらに一体何をしてディスコと呼ばれるのかさえも分からないようになって行き ました。NY中のピザ屋やバー&グリルといった店にもターンテーブルがおかれ、街中のレストランではテーブルを少しズラしてフロアまで作られ、市内には 175件を越えるディスコと呼ばれる店ができてしまいました。


    最早誰もコントロールする事ができず、そして誰もがどこが本物のディスコなのかも分からなくなって行きました。







    そんな中、ひときわ目立ったのがモーリス・ブラームズがブロードウェイに5万ドルを使ってオープンした“Infinity
    。鏡ばりの豪華な内装がウルで、週末には5,000人の集客を誇り、初期投資をわずか7週間で回収したと言われました。またウエスト通りのハドソン川の波止場に作られた巨大ディスコ“12 Westもマンハッタンのナイト・ネットワークに欠かせない場所とまで言われ、“Infinityに比べ、よりカジュワルな客層を掴も行き大成功していきました。



    またデビィッド・マンキューソは“The Loft
    を再開しようと動き出していました。ソーホーの北部に適切な物件を見つけたものの、近隣の住民の反対にあいました。そんな中のひとり、雑誌社のエディター、マイケル・ゴーロドスタインはクラブには行った事すらありませんでしたが、“The Loftが出来ると近隣はドラッグ天国となり人々が通りにたむろするようにもなり、黒人がうろつき、強盗が現れると反対運動を興しました。



    マンキューソは
    “The Loftの正当性を辛抱強く訴え、ソーホーという地域を新しいアイディアを持つアーティストの地に戻そうと主張し、イブ・サンローランの助力も得、サンローランはメンズウエアの発表の場は“The Loftにしていくと発表、“The Loftのアーティスティックな存在意義を主張していきます。また経営内容がアルコールも販売せず、会員制であることからも法的な問題にはいっさい引っかからないという判断も市当局から下されオープンにこぎ着けたのです。



    そうして再開した
    “The Loftは肥大化してしまったディスコ文化に対するアンチテーゼとも言える存在となっていくのでした。





    百花繚乱のディスコ・ブームとなった1976年のNY。一部のマイノリティ達が始めたアンダーグラウンドのパーティに対する偏見も無くならないままでしたが、そうした開拓者達は次第に乱立するまがい物のディスコの活況によって、影を潜めるようにもなっていきます。



    再開された
    “The Loftは建物が以前とは比べようも無い程、広く多きくなっていましたので、サウンドや居住性、そしてなによりも以前の魅力だった家族的なムードを作り直す事に奔走していました。それでも一切の妥協を許さないデビッド・マンキューソは 考え得る最高のサウンドの為に資金と時間を無尽蔵に使い、複雑に計算されたデジタル・ディレイのネットワークをも構築し、どこにいてもサウンドの壁に取り 囲まれていたような空間を作り出してます。ターンテーブルもそれまでのフィリップ社製のモノからトーレンスに変更、さらにはミッチ・コッターにテクニクス のダイレクト・ドライブとフィデリティ・リサーチ社のトーンアームを装備した極上のものに変更していきます。そして究極のマーク・ロビンソンのプリアンプ と光悦のカートリッジという最高設備をも揃えて行きました。



    おのずからそこでプレイされる音楽のタイプにも変化が起きて 行き、サンディ・ブルという16弦ギターの音楽、日本の琴の音楽などもラビィ・シャンカールやヴィバルディ等に混ざってプレイされて行きました。ディスコ でも無いやはりまったく新しい空間とそのカルチャーが産まれました。




    そんな
    “The Loftでもマンキューソが良くプレイした変わった16分の叙情詩のようなディスコ・トラックも流行っていきました。1977年に全米でリリースされた当時、アメリカではまったく無名だったフランスのプロデューサー、セローンの “Love in C Minor” でした。ドナ・サマー=モロダー・コンビに次ぐヨーロッパ・ディスコの訪米です。



    丁度ドナ・サマーでユーロ・ディスコをもっと当てたいと考えていたカサブランカの社長、ニール・ボガードは“Love in C Minor” を無断でカバー、訴訟を興されそうになるやいなや、逆に“Love in C Minor” の 共同作者である(発売当初はクレジットが無くセローンと揉めたようですが)アレック・R・コンスタティノスのプロジェクト、ラヴ&キッスィズとも契約し ビッグ・ヒットさせてしまうという荒技で事を収めました。そうして得た予算でボガードはジャック・モラリとアンリ・ペロロのプロジェクトと契約し大々的な プロモーションを仕掛けます。モロダーやコンスタティノスのサウンドの流れを組み、さらには6人のパーカッションも配したサウンド、そしてなによりもメン バーそれぞれがゲイのコスプレというようなファンションに身を包んだそのグループ、ヴィレッジ・ピープルは世界的な成功を収めるのでした。




    そうして1977年の末頃にはディスコにはユーロ的なリズムのアンサンブルである4つ打ちドラムが不可欠ともなって行きました。そのリズムは実は古くはフィラデルフィアでMFSBのドラムス、アール・ヤングが叩いていたドラムスのパターンとも同じものでした。



    セプター・レコードでトム・モウルトンの発明を次々に商品にもしてきたクラブ界隈を誰よりも良く知るA&R、メル・シュレイはその前年、遂にディスコ専門のレーベルを自ら立ち上げました。その名はWest End Records。NYディスコを語る際に重要なレーベルとなっていくメーカーとなっていきます。



    同じ頃ディスコで最も成功していたレーベルのひとつ、Salsoul Recordsもドナ・サマーに対抗しえるスターを必死に探していました。スター候補は身近な所から現れました。サウソウルの最初の契約アーティストのひ とりでもあるフロイド・スミスの妻であり、シカゴ生まれのシンガー、ロリータ・ハロウェイ(日本ではその響きを嫌って当時のメーカーがロレッタと呼びまし たが、本来はロリータです。)。


    早速彼女をフラデルフィアに連れて行き、ノーマン・ハリス・プロデュースの元作られたアルバム「Loleatta」は熱狂的なレビューに迎えられ、ディスコでもアンセムとなっていきました。勢いづいたノーマンはその年、ファースト・チョイスもプロデュース。手掛けた作品“Doctor Love” は全米ポップ・チャーットのTOP10に入る大ヒット。1977年に最高にヒットした1曲となりました。



    ファースト・チョイス以上のヒットを模索していたロリータはサルソウル・オーケストラの3枚目のアルバムの1曲に招かれます。決壊したダムのように歌う才能がほとばしっていた彼女はその曲を完璧な仕上がりで歌いこなします。そうして仕上がった曲、 “Runaway” は大ヒット。その余韻も覚めやらないうちウォルター・ギボンズがリミックスしたロリータの “Hit anf Run” の12インチがリリースされるやいなや熱狂のディスコ・ヒットとなっていきロリータはディスコ・ディーバとなっていきました。



    同じく1977年、フロリダのレーベルTKからの12インチ、ピーター・ブラウンの“Do Ya Wanna Get Funcy with Me” のリミックスは50万枚を越える巨大なヒットとなります。



    そんな同年、西54丁目のオペラ劇場が改装され映画館となった後、テレビ曲用のスタジオになっていた物件を巨大ディスコに作り替えようと言うプロジェクトが進んでいました。ディスコ“Enchanted Garden
    で 成功していたスティーブ・ルベルとイアン・シュラガーはその企画に熱中し、資金提供者を集め名プロモーター、ダレッシオ、ブロードウエイの照明家のマラン ツやインテリア・デザイナーのダウト、建築家のブロムリー等各界の一流の専門家を集め遂にその巨大ディスコは1977年4月26日にオープンの日を迎えます。



    その名は住所にちなんで
    Studio 54”。増々NYは誰もがコントロールする事のできない、狂乱のディスコ時代を迎えて行くのでした。






    1977年4月26日にオープンの日を迎えた、NYの巨大ディスコ
    Studio 54”


    DJニッキー・シアーニは「Studio 54はNYのディスコの全ての要素を詰め込んでいた。過去7年間のナイトクラブの最高での場所こそがStudio54。」とまで語っています。オープニングの夜はとんでもない混雑ぶりだったようで、ビアンカ・ジャガー、ブルック・シールズ、シェールからマーゴ・ヘミングウェイ、ドナルド・トランプ達セレブリティが押し寄せ、結果1,000人以上の人々が入場する事ができない様子でした。



    オープニング・ナイトこそ華々しく飾れたものの、その後、実は規模自体の大きさもあって上手く軌道に乗る事のできなかった
    Studio 54”。スティーブ・ルベルはある日、店のPRの為にStudio 54”で ビアンカ・ジャガーの誕生会を計画します。当日さほど混んでいないフロアでDJが、来ているミック・ジャガーの「悪魔を哀れむ歌」をプレイすると、4,6 メートルの「ビアンカ」と書かれた巨大スクリーンがライトアップされ、今でも良く写真で見かける、鞍も付けていない白馬にのったビアンカが登場!という絢 爛豪華なパーティの様子はマスコミ達の手によって大々的に宣伝され、その夜をきっかけにStudio 54”は一気にブレイクしたのです。



    その反応に気を良くし、スティーブはさらにアルマーニ、サンローラン、ヴァレンティノ、ヴェルサーチ達の為に定期的に、巨大なコブラの口が空き、中からグレイス・ジョーンズが登場しライブを行い、発射砲は止めどなくきらめく紙吹雪をまき散らし続ける、そんな超ド派手なテーマ・パーティを行い続け、集まったセレブやスター達を満足させていきます。経費を一晩で4万ドル以上もかけていたと言われるそうしたパーティでさらに
    Studio 54”のセレブリティな人気は頂点を迎えます。



    Studio 54”のメンバーシップ制を考えたカーメン・ダレッツオはStudio 54”のVIPカード100枚を知り合い達に配ると、次第にそのカードが高額で取引されている事を知ります。そこに目を付けたスティーブはさらにVIPカードの転売を考え、利益を上げたと言われています。実際にそのメンバーシップを持っていないほとんどの人間はStudio 54”に入る事が出来ませんでしたし、入り口で大挙して並び、服装等でチェックされ入店が許されたのはほんのわずかの人々だけでした。一度Studio 54”を訪れたマンキューソはみんなが外に立って選ばれるのをずっと待っているような、人間扱いされないその入店システムに怒り、二度と来ないと宣言した。




    さらに同年、1977年5月には西52丁目にモーリス・ブラウンとジョン・アディソンがオープンさせたディスコ
    New York, New YorkはそうしたStudio 54”に入る事のできない客達を相手に大きな人気を博しました。逆に言うとそれほど各地からStudio 54”目指してやってきていたのかが伺える話です。





    そんな1年前の話、1976年のNYの事です。“Galaxy 21
    の フロアに響き渡るリズムがよりパワフルになります。オーナーのジョージ・フリーマンがNYにやってきた若きフランス人のドラマーを雇い、DJのウオル ター・ギボンズに合わせ一晩中生演奏させたのです。センスが良くてリズムが的確で曲をどんどん覚えて行ったそのドラマーも、1977年にディスコExperiment 4でDJを始めます。知り合いの機材を使って、気に入ったダンス・トラックをリエディットした曲でフロアを熱狂させていくDJ、その名はフランソワ・ケボーキアン。後にプレリュード・レコード等のリミキサーとして、そしてDJとして大きく時代を引っ張って行くひとりでした。



    さらにマイケル・ブロディが食肉貯蔵庫件ロフトに作ったクラブ“Read Street
    は 建物の構造自体に欠陥があり、1年半で閉鎖となったという事件もデョスコ・シーンを大きく変革させていくきっかけとなります。そうした経験を元にマイケル はさらなる自分の思い通りの、大きなディスコの計画を進めます。やがてキング通りにあった広く大きな空きガレージを見つけ、資金調達を繰り返しながらも“Read Streetの音響にもさらに手を加えた最強の音響設備を誇る、マイケルのいつかこの場所をパラダイスのような素敵な場所にしたいとの思いから付けられた“Paradise Garageという名前で1978年の1月にオープンしたのです。



    実はそのオープンの夜は散々なものでした。吹雪の為ケンタッキーから送られてくる音響機材が到着せず。1,000人を越す客が氷点下のマンハッタンの夜に1時間以上も列を作って待たされたのです。


    それでもレジデントDJ ラリー・レヴァンの人気もあり、NY一ワイルドなパーティを行う人気のディスコとなっていきます。マンハッタン随一と呼ばれた音響空間とWest End Recordsのオーナーのメル・シュレイン、WBLSのラジオDJ、フランキー・クロッカー達とラリーとの有効な関係も後押しし、次第にラリー・レヴァ ンは他のDJとは一線を画す存在ともなって行きました。



    マイケルのコンセプトはひとつ。
    “Paradise Garageを 白人だけでなくアフリカン・アメリカンやヒスパニック系達にも開かれた初のメインストリームなゲイ・ディスコにする事でした。ダンスフロアは驚く程大き く、そこに集ったのは文句無くNYで最もシリアスなダンサー達でもありました。彼らは新たなリアリティを求め、またお目当ての気を引く為に、激しく狂おし く踊っていました。そのフロアの渦の激しさはNYのどんな大型ディスコよりも激しかったと言われます。スタッフ含めそのファミリー的な雰囲気は他の気取り 過ぎたディスコとは真逆で、街の流行に敏感な層の関心を惹くのには十分でした。




    “Paradise Garageの 客が増えて行くに従ってラリーはより自信を持って、そのプレイに磨きをかけて行きました。熱狂的なクラウド達を匠に操り、人々は口々に「ラリーは私の為に レコードをかけてくれるのよ!」とまで言わしめるDJスタイルは、カリスマ性と革新性を伴って多くの伝説を産んで行きます。ラリーは当時トップのゲイ・ ディスコ“Flamingo”がハッピーでエネルギッシュなディスコ をメインとしていたのに対し、よりヘビィーでダークなブラック・ミュージックを好みました。当時ヒットした白人系のディスコは一切かけず、R&Bディスコ を中心に後にカラージと呼ばれる独自のスタイルを作り始めてました。セクシーでダークでファンキーなそんな音楽達は今のクラブ・ミュージックへと続くダン ス・ミュージックの礎となって行くのでした。








    1977年、
    “Paradise Garageがオープンし、四苦八苦しながらも人気を掴もうとしていたそんな頃、メル・シュレイが興した新しいダンス・ミュージック・レーベル「West End Records」はひと足先に大ヒットを産み、新たなディスコ・スターをも生み出します。



    フィラデルフィア出身の、まだ見た目もあか抜けないその白人ソンガーは一旦歌い出すと弾むような力強い声を持っていて、火山のように爆発するポテンシャルを備えていました。名前はカレン・ヤング、彼女の歌った “Hot Shot” はあっという間に全米で80万枚を越える「West End Records」の大ヒットになりました。さらににはそんなディスコ・ブームの中、メルと同じくセプター・レコードにいたマーヴィン・シュラクターも独立 し、新たなダンス・ミュージックのレーベルを興します。その名は「Prelude Records」。先ほど紹介したフランソワ・ケボーキアンも「Prelude Records」のA&Rとなり、その後リミキサーともなり、やがては「Prelude Records」のダンス・クラシックスを量産して行く事となります。


    「Salsoul Records」、「West End Records」と共に70年代のNYを代表するディスコ系レーベルとして、都会的で洗練されたクラシックを数多く世に送り出した三大レーベルがここで揃いました。




    さらにその年に、世界にさらなるレベルでディスコ・ブームを巻き起こすひとつの映画が封切られました。




    その映画の名は「サラディ・ナイト・フィーバー」





    ジョン・トラボルタ主演の世界を巻き込む異常なディスコ・ブームを興すと共に、ディスコ時代のピークを象徴する映画でもありました。映画でトラボルタの踊った ダンスやそのポーズ、使われたディスコ・ミュージックもが世界的に人気になり、ディスコ文化を取り巻くファッションやカルチャーは世界の若者文化に大きな 影響を与えた。映画のサウンドトラック「サタデー・ナイト・フィーバー」は全米だけでも1,500万枚という驚異的な売上を記録、なかでもそのアルバム中 の8曲の関与したビージーズは人気を不動のものにしました。



    そして1978年。ビージーズの “Night Fever” を始めとする一連のヒットや、シックの “Le Freak” (ちなみにStudio 54の入り口で門前払いされた腹いせで作った曲)、ア・テイスト・オブ・ハニー “Boogie Oogie Oogie”、ドナ・サマー “McArther Park” などのディスコ・ソングが次々に大ヒットとなり、かつて無い程新しい音楽として力を付けたのを誇るような年がスタートしました。



    そ の夏にはWKTUというラジオ局がノンストップでディスコ・ミュージックを流し始めました。その結果NY市場で最高の聴視率を上げると言う恐ろしい程の成 功を納め、そうした流れはあっという間に各地に広がり全米中で最終的には200ものラジオ局がディスコ・ミュージック専門局となりました。




    全米のディスコ自体もさらに驚異的なスピードで広がりをみせ、1978年の終わり頃には全米で2万件のディスコが存在するに至りました。






    1960年代の後半、ベトナム戦争からの撤退を表明するも泥沼化の一途を辿っていたアメリカ。



    国内では反戦運動はもちろん石油危機に始まり、景気沈滞化によるインフレ、経済格差、リベラリズム、過剰な抑制制作により派生した公民権運動、フェミニズム、ゲイ解放運動と多くの政治問題が山積みになっていた10年でしたが、そんな中、不平不満を持つマイノリティの人々の輪から始まった70年代のディスコ・シーンは、不景気により路頭に迷うそれまでは保護されていた立場の白人達もが現実逃避の場としてダンス・フロアに集って行き、遂には世界をも巻き込んだ一大旋風を巻き起こしたのです。


    もちろん、そこにはセクシャリティーの開放等も含む肉体的表現の方法としてのダンスの台頭という側面もありましたが、単純に新しいストレスのはけ口として誰もが飛びついたブームに過ぎなかった側面も強かったと思います。



    なぜなら1979年には、そうした時間をかけて辿り着いたディスコの大ブームは、ブームを生み出すまでのスピードとは比べものにならない程の早さで、一気に終息に向かうのです。



    1979年にNYではストーン・ウォール10周年の記念すべきパーティも行われますが、そうしたディスコ時代に反発し、シカゴのロック専門ラジオ局のDJスティーブ・ダールを中心にディスコはダサイキャンペーン「ディスコ・サックス」が始まりました。7月12日に野球場に集まり、火葬用の薪で作られた山に次々にディスコのレコードを積み上げ、口々にディスコはダサい!と叫びながら爆発されたという「ディスコ・サックス」イベント等の運動はあっという間に全米各地に広がりを見せます。そうしたキャンペーンはあっという間に強い力を産み、まず全米のラジオ局がどんどんディスコから離れ、ロックやAOR等へと鞍替えして行くのでした・・・・・


    さらにはブームの終演と共に、恐ろしい病気が蔓延していきます。その正体すら分かるのに恐ろしい程の時間を要した新しい最悪の病、エイズがやってきます。紹 介してきたDJ達始め、当時のディスコ関係の多くがゲイだったこともあり、1980年代はそうしたディスコの関係者達を次々にことごとく失って行く、正に 喪失の時代を迎えて行くのでした。。。。。




    今回の僕のディスコの歴史話はここまで。



    僕は今、そんなNYのディスコの成り立ちと歴史に改めて敬意を払うと共に、今日の日本のクラブ状況にとっても、沢山の学ぶべき事柄があると思っています・・・なのでもう一度再認識もしたくそんな自分の為にも書いてみました。



    最後に、ここまで書いて来た事ほとんどの内容は下記の書籍に事細かく書いてあります。無断であちこちを拝借したようなものですが、サンプリングという手法でしたと作者の皆様に改めてお詫びすると共に、興味を持った方は是非実際に著書を手に取り、細かく読みふけっていただけたらと思い、謹んでご紹介いたします。



    「パラダイス・ガラージの時代」上/下巻 メル・シュレイ著
    「And Party Every Day: The Inside Story of Casablanca Records」ラリー・ハリス著
    「ラヴ・セイブズ・ザ・デイ」ティム・ローレンス著
    「All About Disco Music」TOKYO FM出版
    「Basck To Soul 70年代ソウル」ソウル・ロマンチカ著 学陽書房
    「70's Soul」監修 出田圭 (株)ミュージック・マガジン
    「Disco」監修 大久達郎 (株)シンコー・ミュージック






    沢山の先駆者達に感謝と尊敬の念を込め。

    Watusi (COLDFEET)






























     

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    • 2018.05.24 Thursday
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